メタメッセージが飛び交う読み応えのある物語!(『数学ガール ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)』を読んで考えたこと)
『数学ガール ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)』を読んで考えたことを書くよ。ネタバレ部分もあるから、注意!物語の形式と物語が扱うテーマが折り重なって、とても感動したよ!
数学的なことはよくわかっていないから、おかしなこと書いているかもしれないけど、それはご容赦ください。
はじめに
これまでの数学ガールシリーズは物語に惹かれつつも、それほど Shiro さんが書くようなメタメッセージが飛び交う物語という感想は抱いてこれなかった:
その作品を読んだことはないのでもしかすると想像を絶する空気読み会話なのかも しれないけれど、一般的に言えば、会話文にメタメッセージ(subtext)を 載せるのは現代のテキストなら洋の東西は問わず普通のことで、 上のブログで紹介されている作品も解説を読む限りでは 「西洋人に理解できない、日本的なやりとり」であるようには見えない。
近代以降の戯曲やシナリオを読む場合は「登場人物は本音を台詞では語っていない」と いうのは出発点であって、良くできた芝居や映画では(たとえ「ハリウッド映画」で あろうとも良作なら)全ての会話シーンは「人間同士が会話のキャッチボールをしている背後で、 スタンド同士がドドドドドドドと擬音つきで殴りあっているようなもの」と言ってよい。 だってそう作ってるのだから。
でも、今回の作品はこれまでの作品とは異なっている。メタメッセージが飛び交っている。
知らないふりゲーム
ゲーデルの不完全性定理を説明する際に、「形式と意味の分離」が解説の際のポイントとして導入されている。そしてテトラちゃんはそのことを「知らないふりゲーム」と呼んでいる。
しかし、同時に大事なことは形式の背後に存在するものであることが明言されている:
美しいパターンを描くレース模様を見て、≪穴が空いているのもいいものだ≫というのと似ている。レース模様のパターンが生み出しているものは何かを理解していない。世界を表面だけ観察している。構造を見抜いていない。もっと深い楽しみがあるのに
さて、ここで質問。この物語の中で「知らないふりゲーム」を徹底して行っているのは誰か?それは、語り手である「僕」自身だ。高校生の「僕」ではなく、物語を語っている「僕」である。物語の中には一カ所だけ高校生の「僕」からの視点ではなく、語り手の「僕」が唐突に出現する箇所がある:
「実世界の人物が小説に登場したり、逆に小説の人物が実世界に現れるみたいな話ですね」とテトラちゃんが言った。
テトラちゃんの言葉に、あなたはなるほどと言った。
物語の意味を離れ形式に目を向けると、物語は
- 話をしている人 (= 語り手)
- 話を聞いている人 (= 語りの聴き手)
の二者が存在していなければならない。この部分で語り手は、物語りが行われている状況にメタ的に言及して見せている。プロローグとエピローグを見る限り、この語り手は先生となった「僕」であると推測できる。
つまりこの物語は、表面的には「高校生の僕が感じたことを話している」ような印象を受けるが、実際の構造は「先生になった僕が、高校生だったときの自分を振り返り、知らないふりゲームをして話をしている」なのである。
先生になった僕が高校生の時を振り返れば、色々なことが見えてきて、後付けで説明をつけても良さそうなのに、一切そういったことをしていない。しかし、そうすることで何かを伝えようとしているはずだ。それは何だろうか?
変化
この物語の伏流をなすテーマの一つは、「変化」だ。何かに挑戦していこうとする、変化しようとしている様子が物語の最初の方から暗示されている:
「否定的な、不合理な、想像上の –」ミルカさんは席を立つ。「これらの言葉には、新しい概念に向かう人間のためらいがよく表現されている」
彼女は、窓の外へ顔を向ける。
「新しい道へ進むときには、誰でもためらうものなんだ」
変化の予兆が感じられる中で、高校生の「僕」は物語の中で自分の無力感をつきつけられ、それでもその無力感を引き受ける選択をする:
足下の砂浜を見つめるミルカさん。彼女を見つめる僕。
思いっきり叩かれた頬は、まだずきずきしている。
でも、何かが吹っ切れたかな。
≪きみが落ち込んでも、世界は何も変わらない≫
≪落ち込んでいる自分に酔うな≫
きついけど — その通りだ。
高校卒業後、ミルカさんが留学する。
その事実をきちんと受け止めなくちゃいけないんだろう。
それが現在という時間に、僕ができること。まずは、そこからだ。
ミルカさんたちとの交流をすることで、「僕」は教師が自分の転職ではないかと考え始めていく:
たくさんの対話から、たくさんのものを僕は学んできた。
僕はいまを生きている。僕はいつか死ぬ。
学んだものを伝える相手がいなかったら、どれほどさびしいだろう。
学んだものを、僕は誰かに届けたい。
すぐそばの誰かへ。遠くの誰かへ。未来の誰かへ。
この決意が成就することを、読者の私たちはプロローグとエピローグを読むことで知っている。語り手の「僕」も知っている。でも、高校生の僕は知らない。
成長
ゲーデルの第二不完全性定理は次のようなものだ:
自己の無矛盾性を表現する文の形式的証明は存在しない。
高校生の「僕」が置かれている状況(「変化して成功するかどうかはわからない」・「先生が自分の転職かどうかはわからない」)を、自分自身で証明することはできない。それは「自己の無矛盾性を表現できない」とするゲーデルの第二不完全性定理に重なってくる。物語の中で第二不完全性定理は次のように説明されている:
その通り。第二不完全性定理が成り立つ形式的体系では、無矛盾性の形式的証明ができたら、XよりもYが本質的に≪強く≫なっていることが証明できる。第二不完全性定理によって、形式的体系の≪強さ≫が調べられるのだ。
語り手の「僕」は実際に先生となることで、高校生の「僕」が当時決意したことは矛盾していないと証明している。語り手の「僕」は高校生の「僕」よりも≪強い≫。つまり、成長しているということになる。
こうしたことを踏まえて考えてみると、ミルカさんに留学を告げられた後の「僕」の台詞はとても重要な意味を持ってくる:
「≪ガリレオのためらい≫を乗り越えるってことか」と僕は思わず言った。「不完全性もまた、失敗や欠点じゃなく、新しい世界への入り口なのかも」
これは物語内部では数学的な意味で用いられているが、「自分がこれからどうなっていくのかどうか決定できないという状態は、失敗や欠点ではなく、新しい世界への入り口でもある」と読むこともできる。
これからの自分がどうなるかについてその時点の自分が自己言及しても、どうなるかはわからない。でも、事後的に振り返ることで、私たちは≪強く≫なり、その当時の自分の無矛盾性を証明できるようになるのだ。
このようなメタメッセージがこの物語には織り込まれていると、私には読み取れました。ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
数学ガール ゲーデルの不完全性定理 (数学ガールシリーズ 3)
- 作者: 結城浩
- 出版社/メーカー: ソフトバンククリエイティブ
- 発売日: 2009/10/27
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