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そろそろ学校教育の機能をその本義に戻すべき時だと私は思う。

学校で子どもが経験すべきなのは、「なんだか訳のわからないもの」に取り囲まれ、「ルールがわからないゲーム」にプレイヤーとして参加しつつ、その中で適切にふるまうという試練である。

どのような不条理な状況の中にも、「それでも比較的条理の通った部分」はある。それを見つけ出すのが第一の仕事である。

私たちがどこでもそうしているように、「いったいここでは人々はどういうルールでゲームをしているのだろう」と当惑したときに、教えてくれそうな人を探して、その人に訊く。

「この人に訊けばわかりそうな人」を目を凝らして探し出す。

「私がどこに行けばいいのか教えてくれる」人のことを「メンター」という。

私自身は自分がどこに行けばいいのか知らない。

けれども、その人は私の行き先について知っている。

そういう人を見出さなければならない。

だが、どうやって?

自分の行き先があらかじめわかっていれば、「ここに行く道を知っている人、いますか?」と訊ねることができる。

でも、子どもは自分の行き先を知らない。

にもかかわらず自分をあやまたず行き先に導いてくれる人を捜し当てなければならない。

それが「正しい行き先」であったかどうかは、着いてみなければわからない。

でも、感度のよい子どもはそこに行く道を、とりあえず途中まででも、先に進めてくれそうな人を探り当てることができる。

いま、学校教育に求められているもの (内田樹の研究室)

あらゆる職業には「これくらいでよかんべ」というラインがある。

99%の人間は、そのラインをみつけると、そこに居着く。

1%(もっと少ないかも知れない)の人だけが、それを超える。

「そこまで行くことなんか誰も君に要求していない。いまのままで十分じゃないか。これ以上自分に負荷をかける必要はないだろう」という制止の声を振り切って、歩み続ける。

歩み続けることを止められないその人たちをみていると、人間はどのような職業の、どのような知識や技能を通じても、「行けるところまで行こう」とすると、「向こう側」に突き抜けてしまうのだなということがわかる。

そして、私たちは凡庸な人間には決して達することが出来ない境位に私たちを導いてくれた人々に対して敬意を払うことを禁じ得ないのである。

新学期がそろそろ始まる (内田樹の研究室)