自分も強度のあるメッセージを発信したい

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 気になった文章があったので書き散らかしておきます。

何か文章を書く人は、自分の考えかたを記述するための言葉を用意する。やりかたは3 とおり。全て自分で用意するか、既製品を借りてくるのか、それとも言葉を実世界に依存してしまうのか。

ある種の強度を持った文章を書く人達は、自分の立ち位置とか、価値判断の基準なんかを全て自前で用意する。

要するにそれは、蓄積された過去記事と、背負って育ててきた自分の名前。そこに長く居ること、ぶれない立ち位置を保ちつづけていることは、それ自体が「強度」を担保してくれる。

価値記述を実世界に依存するやりかたというのは、要するにその人の経験であったり、その人しか知らないニュースであったり。

たとえその人の文章が流暢でなかったり、あるいは読みにくいものであったとしても、その人が体験した出来事とか、実世界で蓄積した経験が他に得がたいものであるなら、その人の言葉は否応なく力を持つし、きっと多くの人に届く。

言葉は激しいのに力を持たない、文章は怒りに満ちて、罵詈雑言の限りを尽くして何かを叩いているのに、それを読んでもこちらの感情が動かない、そんな文章はたいていの場合、既製の立ち位置。

どこかで見たような立ち位置の人が、既知の価値判断に基づいて、何かを叩く。

強度というのは、未知の判断を行う場所に発生する。

「借り物」から強度を生むのは難しくて、それにはどうしても、自分ならではの判断とか、その人独自の立ち位置なんかが欠かせない。ネット世間では時々、「文章をコピーして広めましょう」なんて運動が起きるけれど、文章は、コピーが行われ、それを書いた人の立ち位置から離れた時点で強度を失う。コピーされた文章は、だからたとえ目に入ったところで伝わらない。


言葉の強度について – レジデント初期研修用資料(旧)