『ローマ人の物語 2』
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『ローマ人の物語 2』で気になった部分です。文庫版の『ローマ人の物語』は1・2がセットで王政の時代の古代ローマを取り上げています。そして統治システムが王政から共和制へと変わる過渡期を主に扱っています。『ローマ人の物語』についての一般的な説明は左のイメージをクリックしてWikipedia(Japan)に飛んでください。
- [memo] 衰退期に入った国を訪れ、そこに示される欠陥を反面教師とするのは、誰にでも出来ることである。だが、絶頂期にある国を観察して、その国のまねをしないのは、常人の技ではない。大学生の卒業旅行ではないのである。実務の経験も豊かで年齢も十分な、元老員議員三人が視察したのだ。紀元前五世紀半ばというこの時点でのギリシアとの接触は、これらのローマ人に、模倣とは別の何かを考えさせたのではなかったか。
- [memo] それに、私には、まねしなかったということが影響を受けなかったことにはならない、という思いがあるからだ。模倣しなかったと言うことも、立派に影響を受けたことになるのではないか。それも、観察し洞察する力のない人間が視察したのならいざ知らず、ローマ視察団の三人は、この前後の業績から観ても一級の人物が選抜されていたのは確かだった。
- [memo] 人類はしばしば、先見性に富む人物を生んできた。彼には先が見えるから、現在何をなすべきかがよくわかる。しかし、認識しただけならば、先見性を持った知識人、で終わってしまう。見栄、理解したことを実行に移すには、権力が必要だ。マキアヴェッリも、「武器を持たない予言者は自滅する」と言っている。トロイの王女カッサンドラは、ギリシア勢によるトロイの滅亡を予言し、それを防ぐための対策をトロイ人に説いたが、誰からも相手にされなかった。ヨーロッパでは今でも、説得さえすれば聞き入れられると信じている人を、「カッサンドラ」と呼ぶ。
- [memo] それで、権力の獲得が先決問題になってくるのだが、どうやって権力を築くかにはその時代の流れがどの方向に、しかも大波になって向かっているかを察知する能力が求められてくる。大波が民衆ならば、彼は民衆派の頭目になり、民主制が壁に突き当たった時代に出会えば、彼は寡頭政のリーダーになるという具合だ。民衆が好きだから民衆派になるのではないところが、新派であれば十分な手足と、その手足を駆使しなければならないリーダーの違いである。権力は彼らにとって、目的ではなくて手段である。ただし、必要不可欠な手段ではあった。
- [memo] ローマ人には、敗北から必ず何かを学び、それを元に既成の概念にとらわれないやり方によって自分自身を改良し、そのことによって再び起ちあがる性向があった。敗けっぷりが、良かったからではない。敗けっぷりに、良いも悪いもなく。敗北は敗北であるだけだ。重要なのは、その敗北からどのようにして起ちあがったか、である。つまり、敗戦処理をどのようなやり方でしたのか、である。
- [memo] 人間世界では、はじめから遠い将来まで見透かし、それに基づいていわゆる百年の計をたて、その計を実行に移せる人間は多くはない。少ないから、天才なのだ。天才以外の人間は、眼前の課題解決だけを考えて方策を立てる。だが、ここから進路は二つに分かれる、眼前の課題の解決のみを考えて立てた方策を実行したら、結果としてそれが百年の計になっていたという人と、眼前の課題は解決できたが、それは一時的な問題解決に過ぎなかった、という人の二種類だ。後者の偶然は偶然でとどまるが、前者の偶然は必然になる。歴史上の偶然が歴史的必然に変わるのは、それ故に人間の所行によってである。後世から見れば歴史的必然と見えることのほとんどは、当時では偶然に過ぎなかったのだ。その偶然を必然に変えたのは、多くの場合人間である。ゆえに、歴史上の主人公は、あくまでも人間なのである。