Kazuhiro Musashi
Opinions are my own. kazu634
published on 2007-11-23 included in category 引用 Amazon.co.jp: 弓と禅: オイゲン・ヘリゲル, 稲富 栄次郎, 上田 武: 本を昨日読んでいました。この本は、ドイツ人の哲学者が日本の弓術の達人に教えを請い、その奥義に触れるというような内容です。この本が面白いと考えられるのは、西欧的な視点から日本はどのように受容されていたのかということがわかるというだけではないように思います。むしろ西欧化しつつある私たち日本人が、ドイツ人の著者の視点を介して、日本的な考えを見つめ直すことが出来る点が興味深いのではないかと思いました。 引用 偉大な達人は同時に偉大な教師でなければなりません。我々の考えではこの両者が一心同体であることは全く分かりきったことなのです。もし師範が呼吸の練習でもって稽古を始めたとすれば、あなたが決定的なものを得たのは呼吸法のおかげであるということを、彼は決してあなたに確信せしめ得なかったでしょう。あなたはまず第一にあなた自身の工夫でもって難破の苦汁をなめねばならなかったのです。師範があなたに向かって投げ与える究明の浮輪をつかむ準備が出来る前に。うそではありません。私は私自身の経験から、師範はあなたやその他の弟子たちの誰をも、我々が自分自身を知るのよりずっとよく知っているということがわかっているのです。彼は弟子の魂の中を、彼らがそうだと思いこんでいる以上によく読み取っているのです。(48-9) 正しい弓の道には目的も、意図もありませんぞ!あなたがあくまでも執拗に、確実に的にあてるために矢の放れを習得しようと努力すればするほど、ますます放れに成功せず、いよい中りも遠のくでしょう。あなたがあまりにも意志的な意志を持っていることがあなたの邪魔になっているのです。あなたは、意志の行わないものは何も起こらないと考えていられるのですね。(59) このように無条件的に、形式を支配しうる状態に達するよう教育することが実に日本的な教育の狙いなのである。すなわち切磋琢磨、反復、そして反復されたものをまた反復することによって、不断に進歩向上し、はるかな修練の行程を歩むところにその特徴がある。このことは少なくとも伝統に結びついた芸術のすべてに当てはまる。師の演技と模範に対してで師が自己を打ち込みこれを模倣すること―これが指導の基本的な関係である。(73) 日本の弟子は三つのことを身につけてくる。善いしつけと、自分の選んだ芸術に対する情熱的な愛と、師に対する批判抜きの尊敬とである。師弟関係は昔から生の基礎的結合であり、それゆえ師はその教授科目の枠をはるかに超えて、強度の責任を取ることが、この関係の中に含まれているのである。(73-4) まず弟子は最初、師がやってみせることを、良心的に模倣すること以外には、何一つ要望されることがない。師は長ったらしい説教や理由付けを嫌って、簡潔な教示をするにとどめ、弟子が質問することなどは勘定に入れていない。彼は弟子の模索的な数々の骨折りを落ち着きを払って静かに眺めており、別に弟子の独立心を創意工夫を期待しないが、弟子が成長し成熟するのをじっと待っている忍耐心を持っている。両者共に時間をたっぷり持っており、師はせきたてず、弟子にあわてて手を差し出さないのである。(74) 弓と禅 作者: オイゲン・ヘリゲル,稲富栄次郎,上田武 出版社/メーカー: 福村出版 発売日: 1981/11 メディア: 単行本 購入: 5人 クリック: 34回 この商品を含むブログ (27件) を見る なんとなく大学院の育成形態に似ているなとふと思ったので追記。
kazu634
published on 2007-11-19 included in category 雑記 東北英文学会で発表してきました。id:hspstcl 先生に司会していただきました。*1id:hspstcl 先生はJoseph ConradのLord Jimで修士論文を書いたそうで、Conradの専門家。さらに自分の前の回の発表も司会を担当されていて、めちゃくちゃ頭の回転が速いことが繰り出される質問でわかる。。。目の前にはうちのボスが座っていた(ちなみになぜか自分だけタイミングの問題で、アウトラインの発表やプレ発表でボスによる確認を経ずに発表まで到達していた。かなりのプレッシャー)。しかもIさんという昔うちでJoseph Conrad研究をしていた先輩がはるばる関西からやってくる…らしいとの情報も。。。しかも発表開始前に後ろの方を見たらF大のK先生*2という方もいてですね、この人も頭いい人なのでちょっと泣きそうでした。まぁ、こんな感じの包囲網を敷かれて私の発表が始まったわけです。ちなみに最大のプレッシャーを発散させているのは目の前のボスでありました(..;) 発表は基本的に好意的に受け入れられたようです。うちの外国人講師の先生と何度も打ち合わせて「気に入った」と言ってもらえたヤツなので、好意的に受け入れられるであろうことはわかっていましたが、それでもほっとしました。id:hspstcl 先生からは「Frederic JamesonのThe Political Unconsciousへの言及がLord Jimをジャンルの観点から分析するには不可欠なので、取り扱っている批評家の批評史的な背景を確認するといい」というアドバイスをいただきました。とりあえず読もうとして積まれているリストの中にThe Political Unconsciousがあったわけなので、さっさと読んでみようと思います。色々と質問も受けたのですが、やはりK先生の「Lord Jimの中で教育が失敗しているという趣旨はわかったけれど、誰が誰に対して行う教育が、どのようにして失敗しているのかをもう一度説明してくれませんか?」というキラーパスがやってきました。発表者はその発表で精一杯なんだから、発表の内容を理解して一つ上の俯瞰した視点で質問をされても困るんですけど。。。 興味がある人は発表原稿とハンドアウトです: 原稿 ハンドアウト *1:英文学の先生がよりにもよってはてなでブログを解説しているのがやや疑問だったりして。。。 *2:思えば学部二年生の時にこの先生の外国語の授業を取ったのが出会いでした。その当時先生を休職して大学院に社会人入学していた先輩とK先生は学部生の時に同級生だったそうで、やる気なく最後尾に座る私に話しかけていただいたのでした。その後、私がその授業に必死になって取り組んだのはいうまでもありません。うちの研究室の先輩です。
kazu634
published on 2007-11-11 included in category 引用 『ウェブ時代をゆく』という本を読んでいました。この本は梅田望夫という人が書いている本です。おそらく茂木健一郎と一緒に『フューチャリスト宣言』を書いた人として有名なのかな(インターネット界隈ではかなりの有名人なんだけど)。 この人が現在地球上で進行しつつあるインターネットにもたらされる変化を”provocative”に書き上げている本です(それにしてもPaul Grahamのエッセー以外で”provocative”という表現を使うことになるとは思わなかったぜよ。ちなみにPaul Grahamという人は最近でいうとベンチャーキャピタリストとしての経験から「どの大学に行くか何て関係ない」と言い切った人です)。 この本の中で書かれているのはこれからの世界がどうなっていくのかということを示唆しているように感じられます。順番を追っていくとすると、 ハードの進化が速くなり、より安くなる(←「チープ革命」 それに合わせて、ウェブの進化が始まる ウェブの進化によって、様々な人々が自分の持っている情報・ノウハウをウェブ上に公開するようになる 「すべての情報を共有すべし」という反集権的なハッカー倫理に基づき、Googleなど検索サービス会社がウェブ上に散らばった情報を整理、統合する Googleは検索サービスに広告を表示するサービスでリアルマネーを得られることになり、ウェブ上の情報だけでなく、著作権の切れた書籍などの情報もインターネット上で検索可能にするように動く(←いまこのあたり) というようなことになっています。こういう環境が整ったことで、何かを学ぼうとする際にあらゆる分野で私たちはある一定の所までは凄まじい早さで習熟することができるようになります。梅田さんはこれを「学習の高速道路」と呼んでいます(将棋の羽生さんから教えてもらった考えだそうです)。そして羽生さんが問題提起しているのは、「学習の高速道路」が存在していることではなく、次のようなことでした: しかし「学習の高速道路」も、高速道路を走りきったなと思ったあたり(「その道のプロ」寸前)で大渋滞が起こるのだと羽生は言う。同質の勉強の仕方でたどり着けるのはそこまで。誰にも機会が開かれるゆえ参入者も増え、しかも後の世代も次々に疾走してきては「その道のプロ」寸前での大渋滞にはまる。「その道のプロ」としてメシを食い続けていけるかどうかは、大渋滞にさしかかった後にどう生きるかの創造性にかかる。これが羽生の問題提起であった。 この問題提起に対して梅田さんは次のように述べています: 大渋滞の後でサバイバルするには、大渋滞を抜けようと「高く険しい道」を目指すか、大渋滞にさしかかったところで高速道路を降りて道しるべのない「けものみち」を歩いてゆくか、その二つの選択肢があると私は思う。そのどちらの道を目指すにせよ、自らの「向き不向き」と向き合い、自らの志向性を強く意識し(それが戦略性そのもの)、「好きを貫く」ことこそが競争力を生むと私は考える。 こうした自分の意志が重要になると梅田さんは問題提起していました。ここまでは社会人として現在活躍している人にどちらかというと警鐘を鳴らしている(こうした変化は確実に20~30年以内には現実のものになりそう…なので、そうした変化について行けないとその人の市場価値がcommodityとなってしまう)内容といえました。 ちなみに若者に対してはこんなことを言っています: 「時代の変わり目」を意識していちばん気をつけなければならないのは、優等生たちだ。優等生とは、古い仕組みの中で、もっとも適応できてきた人たちだからだ。「一身にして二生を生きる」くらいガラッと変わった世界に、突然40~45歳くらいで投げ出されてみると、いちばんに淘汰される可能性がある。ここ数年、積極的に日本の若い人たちと接する時間を増やしていて思うのは、優等生ほど心の中に「古い価値観」がきちんと刷り込まれているということだ。逆に言えば「古い価値観」を信じることが出来たから「いい学校へ、いい大会社へ」という「人生のレール」なるものを走ることができ、いまここで起きている大変化からも冷静に距離を置くことが出来ているのかもしれない。別に明日から何もかもをがらりと変える必要はないが、「古い価値観」を少しずつでも疑ってかかるといい。 こういう部分を読むと、『なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか? 』の次の部分と対照させて読みたくなります: 社会の激変と処方箋なしの状況大いなる不安。そんな中、若者たちは、無理せずに、無駄なこともせず、細く長く生きるという「エコ体質」を身につけた。結果が出せる確信のない努力は自分自身を傷つけてしまうかもしれないから、冒険もしなくなった。あえて視野を狭め、実現可能な目標を追い、こじんまりとした楽しい生活を送る。平和だし、そこそこ豊かだし、「ここにあるもの以上にいったいなにがあるというのだろう?」と考えるようにもなった。 とりあえず今の一瞬一瞬の積み重ねが、これからの自分を左右することになるのは間違いないということはわかる。がんばれ、自分。 ウェブ時代をゆく ─いかに働き、いかに学ぶか (ちくま新書 687)
kazu634
published on 2007-10-26 included in category 引用 「丁寧に時間と心がかけられた仕事をするためのワークスタイル:DESIGN IT! w/LOVEで紹介されていた『自分の仕事をつくる』を読みました。「いい仕事とは何か」みたいな問題意識を持って、様々なデザイン会社やクリエーターを著者が訪ねるという形式になっています。色々と気になった部分がありました。 また一方に、丁寧に時間と心がかけられた仕事がある。素材のうまみを引き出そうと、手間を惜しまず作られる料理。表には見えない細部にまで手の入った工芸品。一流のスポーツ選手による素晴らしいプレイに、「こんなもんで」という力の出し惜しみはない。このような仕事に触れるとき、私たちはうれしそうな表情をする。 人間は「あなたは大切な存在で、生きている価値がある」というメッセージを、常に探し求めている生き物だと思う。そして、それが足りなくなると、どんどん元気がなくなり、時には精神のバランスを崩してしまう。 「こんなもんでいい」と思いながらつくられた物は、それを手にする人の存在を否定する。とくに幼児期に、こうしたとげに囲まれて育つことは、人の成長にどんなダメージを与えるだろう。大人でも同じだ。人々が自分の仕事を通して、自分たち自身を傷つけ、目に見えないボディーブローを効かせ合うような悪循環が、長く重ねられている気がしてならない。 Good design is in the nature of things. いい視点はそれが見いだされた時点で、アイディアの展開に入り始めている。 合理的であること、生産的であること、無駄が無く効率的に行われることを良しとする価値観の先にあるのは、極端に言えば全てのデザインがファーストフード化した、グローバリズム的世界だ。そのゲームから降りて、仕事の中に充実感を求めるとき、私たちには「時間」を手元に取り戻す工夫が求められる。 世の中で一番難しいのは、問題を作ることです。万有引力の法則におけるニュートンのリンゴのように、問題の凄いところは、出来た瞬間その先に答えがあること。それを作り出すのは、本当に難しいことです。 出来るだけ自由に、自発的に仕事をしてもらうこと。そして逆説的であること。その仕事の価値や意味を問い続けること。不可能に思えてしまうようなことを提案して、オープンにフレキシブルにね。みんな最初は心のチャックを閉じている。だからメンタルなプロセスを経て、まず心のチャックを開けてもらうこと。限界を課さないで、極限まで行くこと。 ファシリテーター10ヶ条: 主体的にその場に存在している 柔軟性と決断する勇気がある 他者の枠組みで把握する努力が出来る 表現力の豊かさで、参加者の反応への明確さがある 評価的な言動は慎むべきとわきまえている プロセスへの介入を理解し、必要に応じて実行できる 相互理解のための自己開示を率先できる、開放性がある 親密性、楽天性がある 自己の間違いや知らないことを認めることに素直である 参加者を信頼し、尊重する それは「あなたには価値がある」と口で言うことではなく、その人の存在に対する真剣さの強度を態度と行動で体現することだと僕は思う。 むろん奇跡や偶然は起こる。むしろ、重要なことの大半は主に偶然起こると言っても良いだろう。条件がそろっているようには見えない”にもかかわらず”、それを呼び込む才能や運に炊けた人々は確かに存在する。が、その偶然性を活かせる働き方もあれば、気づくことすらない働き方もある。 いずれにしても大事なのは、自分がしっくり来ないことや疑問に思うことを素通りせずに、常に意識し続けること。自分を大事にすること、自分らしさを模索し続けること。 中途半端な掘り下げはマスターベーションと評されかねないが、深度を極端に深めていくと、自分という個性を通り越して、人間は何が欲しいのか、何を快く思い、何に喜びを見いだす生き物なのかといった本質にたどり着かざるを得ない。歴代の芸術家や表現者が行ってきた創作活動は、まさにこの繰り返しだ。自我のこだわりだけでなく、世界に開かれた感覚を持ってその仕事を行えるかどうかが、つくり手の器の大きさに当たるのだと思う。 大事な人が自分のためにつくってくれた物であれば、多少形がいびつでも、それだけの理由で価値が損なわれることはない。が、つくり手との関係性や物語性に欠けるプロダクトは、モノそのものの美しさや機能に評価を集中せざるを得ない。 ミヒャエル・エンデは、仕事に対する愛はないが頭は良い、そんな人々が作り出す社会を「機能は完璧だけど、本質を全く欠いた世界」という言葉で表現した。 思いっきり単純化すると、「良い仕事」とは嘘のない仕事を指すのかもしれない。 私のデザインから生み出されるモノの量を考えると、いつも複雑な気持ちに駆られる。美に関わる職業の中でもうらやましく思うのは、ダンサーと俳優だ。彼らは人々の心に記憶として刻みつけられるモノ以外、何一つ残さないから。 でも、私と一緒につくるものはその逆です。何の飾りもないから、一つの間違いでもすぐわかってしまうし、私にもその人の腕がわかる。もちろん手作りだから、まったく同じモノはつくれない。やっぱり、みんなちょっとずつ自然と違ってきます。 自分がどんな場所を気持ちいいと思うか。その判断力がなかったら、気持ちの良い場所を生み出すことなど出来ない。モノ作りは無数の判断の積み重ねだ。もしつくり手が自らの判断力に自信を失ったら、一体何が作れるだろう。 個人を掘り下げることで、ある種の普遍性に到達すること。自分の底の方の壁を抜けて、他の人にも価値のある何かを伝えることは、表現に関わる人全ての課題だ。 鈴木さんも言うように、模型は確かに生活必需品ではない。しかし絶対的に必要とされ、その異議があらかじめ約束されているモノなど、この世の中にどれほどあるだろう。 自分がとことんバカになれることを、忘れないことです。バカをなれることを大事にする。バカをやれることを大事にする
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published on 2007-09-09 included in category 引用 一部のネット界隈で話題になっている『数学ガール』を買ってみました。表紙はライトノベル風で内容的に大したことがないような印象を 受けますが、そんなことはありませんでした。基本的に私は数学はあまり得意ではないのですが、数学の楽しさをほのぼのと教わった気がします。その点で言え ば、『博士の愛した数式』に通じるものがあります。こっちは高校生たちの会話がメインなので、より親 しみやすいかも。 気になったのは以下の点です:
[memo]
何だか―小さな懐中電灯を一つ渡されて真っ暗な部屋に投げ込まれたみたいな気分になるんです。懐中電灯で照らせるから、前には進める。でも、そのライトは
照らす範囲が狭い。自分がどこを歩いているのかわからない。後ろを見れば真っ暗、前を見ても真っ暗。明るいのは、いま照らしている小さな輪の中だけ。本当
に難しいことならしょうがないんですけれど、式の変形そのものはそんなに難しくない。だから、数学って簡単なのか、難しいのかわからないっていつも感じま
す。一つ一つは簡単なのに、全体がつかめない。地図がないから迷いそう―とても不安になります。 [memo] 学校の世界はとても小さくて狭い。子供向けの偽物がたくさんある。学校の外にも、偽物はたくさんあるけれど、切ったら血が出てくるような本物もたくさんある。 [memo]
好きなことをしっかり追い求めていくと、本物と偽物を見分ける力もついてくる。いつも大声を出している生徒や、賢いふりをする生徒がいる。きっとそういう
人たちは自己主張が好きで、プライドが大事なんだ。でも、自分の頭を使って考える習慣があって、本物の味わいを知っているなら、そんな自己主張はいらな
い。大声を出しても漸化式は解けない。賢いふりをしても方程式は解けない。誰からどう思われようと、誰からなんと言われようと、自分で納得するまで考え
る。それが大事だと僕は思っている。好きなことを追い求め、本物を追い求めていくのが― [memo]
……地球上のあちこちで、膨大な時間の中で、数学者たちはさまざまな問題の解を探し求めてきた。何も見つからずに終わることも多いだろう。では、探すこと
は無駄かな?違う。探さなければ、見つかるかどうか、わからない。やってみなければ、できるかどうか、わからない。……私たちは旅人だ。疲れることはある
かもしれない。道を間違うことはあるかもしれない。それでも、私たちは旅を続ける…疲れたなら、休めばよい。道を間違えたなら、戻ればよい。――そのすべ
てが、私たちの旅なんだから。
数学ガール
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UNIXという考え方―その設計思想と哲学でまとめられていた、UNIXのphilosphyです。メモするだけ。 Small is Beautiful.: 小さいものは、大きいものにはない利点がいくつもある。小さいもの同士なら、簡単に独特の便利な方法で組み合わせることができるというのもその一つだ。 Make each program do one thing well.: 一つのことに集中することで、プログラムに不要な部分をなくせる。不要な部分があると、実行速度が遅くなり、不必要に複雑になり、融通が利かなくなる。 Build a prototype as soon as possible.: あらゆるプロジェクトにおいて、試作は重要だ。一般的に試作は設計全体のうちのほんの一部として扱われているが、UNIXにおいての試作は、効率的な設計には欠かせない重要な一部だ。 Choose portability over efficiency.: UNIXが移植可能なオペレーティングシステムという新境地を開拓したとき、これはすごいニュースだった。現代のソフトウェア設計では、プログラムに移植性があることは当たり前のこととして捉えられている。これは、UNIXの考え方のうち、ほかのシステムにも広く受け入れられている一つの例だ。 Store numerical data in flat ASCII files.: 移植性のあるプログラムは重要だ。しかし、移植性のあるデータも移植性のあるプログラムに勝るとも劣らず重要だ。従来の移植性に関する議論では、データの移植性という視点がいつも無視されてきた。 Use software leverage to your advantage.: 再利用可能なモジュールの重要性について、たいていのプログラマは表面的にしかわかっていない。プログラムの再利用は、ソフトウェアのてこを最大限に活用した強力な考えだ。UNIXの開発者たちは、この考え方に従って、非常に多くのアプリケーションを比較的短期間に開発してきた。 Use shell scripts to increase leverage and portability.: シェルスクリプトは、ソフトウェアのてこを生かすと同時に移植性も高めるという二つの効果がある。可能なときは常に、C言語ではなくシェルスクリプトを使うべきだ。 Avoid captive user interface.: いくつかのコマンドは、「ユーザーを拘束する」インターフェースを持つ。そのコマンドを実行してしまうと、実行中にほかのコマンドを実行することはできない。つまり、そのコマンドの実行中は、ユーザーはそこを離れられなくなってしまう。そのため、この類のものを「拘束的」ユーザーインターフェースと呼ぶ。 Make every program a filter.: ソフトウェアの本質は、データを処理することで、生成することではない。その能力を最大限に発揮するためには、プログラムをフィルタとして動作するように設計すべきだ。 小さなプログラムを組み合わせて、段階的に成長していくこと・ユーザーは自分が何をしているのかを常に把握していること…これらがUNIXというOSが持ってきた性格みたいです。 移植性の項目でも紹介されていたので、エディターをEmacsに変更してみようかしら。Emacsであれば今後40年過ぎても変わらずに存在し続けるだろうから。Windowsはこれからも存在し続けるのかどうかはわからないからなぁ。 UNIXという考え方―その設計思想と哲学
Mike Gancarz 芳尾 桂 オーム社 2001-02